名古屋地方裁判所 平成9年(わ)765号 判決 1997年9月30日
主文
被告人を懲役六か月に処する。
この裁判が確定した日から三年間刑の執行を猶予する。
理由
(犯罪事実)
被告人は、名古屋市中区栄<地番省略>に本店を置いて○○等の製造販売等を目的とし、発行する株式が東京証券取引所及び名古屋証券取引所に上場されている株式会社鈴丹(以下「鈴丹」という。)の代表取締役会長であり、かつ、同中区栄<地番省略>に本店を置いて有価証券の保有及び運用等の事業を営むA株式会社(以下「A」という。)の代表取締役社長として、両会社の業務全般を統括していた者である。ところで、鈴丹については、平成五年一二月二七日ころ、鈴丹の子会社であるP株式会社が経営破綻状態に陥ったことにより、鈴丹が取得していた合計約二一億六〇七二万円のPの株式について同額相当の株式評価損が生じていること、また、鈴丹が債務保証していたPの銀行借入四五億円について保証債務を履行せざるを得ず、その場合Pに対する求償を断念して債務免除を決定することになるなど、保証債務を履行した場合Pに対する求償権について債務不履行のおそれが生じていることの、各鈴丹の業務に関する重要事実が発生していた。被告人は、そのころ、鈴丹代表取締役会長としての職務に関してこれらの重要事実を知った。そして、被告人は、鈴丹の業務に関する重要事実の公表によって鈴丹株券(以下「鈴丹株」という。)の株価が下落する前に鈴丹株を売却しようと考え、法定の除外事由がないのに
第一 鈴丹の代表取締役社長として被告人とともに鈴丹の業務全般を統括していたS、鈴丹の専務取締役として鈴丹の財務業務等を統括していたH及びAの監査役でありAの財務業務等に従事していたKと共謀の上、別表一記載のとおり、前記重要事実の公表前である平成六年五月二〇日から同年八月五日までの間、前後八回にわたり、丸万証券株式会社本店等証券会社五社を介し、名古屋市中区栄三丁目三番一七号の名古屋証券取引所において、被告人所有の鈴丹株合計一〇一万株を売り付け、上場会社である鈴丹の業務等に関する重要事実の公表前に鈴丹の株券の売買を行った。
第二 Aの業務に関し、前記Kと共謀の上、別表二記載のとおり、前記重要事実の公表前である平成六年七月七日から同年九月一日までの間、前後一四回にわたり、日興證券株式会社名古屋支店等証券会社三社を介し、前記名古屋証券取引所、東京都中央区日本橋兜町二番一号の東京証券取引所において、A所有の鈴丹株合計三一万八〇〇〇株を売り付け、上場会社である鈴丹の業務等に関する重要事実の公表前に鈴丹の株券の売買を行った。
(証拠)<省略>
(補足説明)
弁護人は、Pに対する求償権の債務不履行のおそれのある金額として被告人が認識していたのは四五億円ではなく一五億円であったと主張するので、付言する。
確かに、平成六年二月ころ、P再建案として、鈴丹から二五億円の融資と約八億円の増資をし、銀行に三〇億円を返済して鈴丹の保証額を一五億円に減少させる案が役員会で承認され、被告人も同意したことは認められる。しかし、平成五年一一月には、その再建案の元となる再建案(「ダッシュオン計画」)が計画されていたのであり、前記再建案はその修正案であるところ、「ダッシュオン計画」の時点で、すでにPが経営破綻状態にあって犯罪事実記載の重要事実が発生しており、被告人もHらから計画の説明を受けて、これを認識していたことは証拠上明らかである。そして、「ダッシュオン計画」は、結局のところ鈴丹の債務保証額を単に財務処理上減らすだけのごまかしともいうべきものであって、被告人の強い反対によって実施されず、前記修正案も一部が実施されたのみで、債務保証額は変わらず、被告人が修正案がそのまま実施されると認識していたわけでもない。
そうすると、被告人が犯行当時認識していた債務不履行のおそれのある金額は四五億円というべきであるから、弁護人の主張は採用できない。
(法令の適用)
罰 条 第一、第二の各行為につき、それぞれ包括して平成七年法律第九一号による改正前の刑法六〇条、証券取引法二〇〇条六号、一六六条一項一号(一六六条二項二号イ、ニ、証券取引法施行令二九条八号)
刑種の選択 いずれも懲役刑
併合罪の処理 刑法四五条前段、四七条本文、一〇条(犯情の重い第一の 罪の刑に加重)
刑の執行猶予刑法二五条一項
(量刑理由)
一 犯行に至る経緯等
被告人は、昭和六一年ころ個人でグアムのリゾートホテル建設計画に出資したが、平成四年三月ころには失敗に終わり、約三五億円の借金が残った。被告人は鈴丹以外の株券を売却するなどして返済に充てたが、容易に換金できる財産は鈴丹株だけという事態に陥り、平成五年秋ころには毎月の利息の支払いにも困る状態となった。そこで、それまでは創業者として鈴丹株の売却に難色を示していた被告人は、資産管理をしていたKの進言を受け入れて、平成五年一二月中旬ころには鈴丹株の売却を決意した。
一方、鈴丹は、ディベロッパー事業へ進出する足がかりとして、当時の社長のSの強い意向で平成四年七月ころPへの支援を決定した。そのため、Pに対し、直接貸付、銀行借入の債務保証というかたちで金融支援するとともに、T副社長をPの代表取締役社長として送り込んで人的支援も行った。さらに第三者割当増資を受けてP株式を取得し、子会社とした。ところが、Pは鈴丹が支援を開始する時点ですでに構造的に赤字を生み出す体質となっており、鈴丹の支援をもってしても一か月あたりの営業収支を黒字にすることすらできなかった。鈴丹は、平成五年末ころまでに約八〇億円(貸付金約一四億円、債務保証額約四五億円、出資額約二一億円)の資金を投入したが、利益を上げる見込みが立たない以上、その全額が回収不能の損失となり、さらに支援を継続すれば損失は拡大の一途をたどることが確実であった。結局Pの支援は経営判断の誤りだったと判明し、Sも鈴丹本体に悪影響を与えないように注意しながらいずれPを倒産させるしか途はないと考えるようになった。しかし、P支援の経営責任を問われることを恐れたことなどから、平成六年五月一二日発表の平成六年二月期の連結決算短信では、Pの経営が破綻して回復の見込みがなく鈴丹も莫大な損失を免れない状況にあることを開示しなかった。被告人も開示されなかったことを認識しながら、KやHらに鈴丹株の具体的売却方法を任せて売却を指示し、その売却計画に従って本件各犯行に及んだ。
平成六年一〇月一七日、鈴丹は、平成七年二月期の中間決算短信を発表し、翌一八日には、Pが資本減少することも公表した。しかし、Pが経営破綻状態にあり、鈴丹が取得していたP株式について評価損が生じること、また、鈴丹が保証債務を履行した場合におけるPに対する求償権について債務不履行のおそれが生じていることなどの重要事実について具体的には説明しなかった。鈴丹が中間決算短信発表の翌日に子会社の減資を公表したことに対し、企業情報開示の在り方として問題があるとの報道がなされ、一〇月一九日の鈴丹株は、ストップ安となった。平成六年一一月二一日、鈴丹は「子会社の資本減少における当社の業績に与える影響について」と題して、Pに対する債務保証額四五億円の履行の可能性及び鈴丹所有のP株式二一億六〇〇〇万円につき、実質価額相当額までの株式評価損を計上する可能性があることを発表し、重要事実を公表するに至った。
二 量刑上特に考慮した事情
1 本件犯行は、個人事業で失敗し債務超過状態にあった被告人が、債務を鈴丹株の売却により返済しようとしたが、Pに関する重要事実の公表後に売却したのでは大幅な株価下落が見込まれたため、インサイダー取引として、保有していた鈴丹株を売却したというものである。巨額の負債の返済に苦慮していた状況からみて、犯行に及んだ動機には同情の余地がないではないが、もともと個人事業の失敗は被告人の責任によるものであり、インサイダー取引が許されない以上株価の下落後の売却もやむを得ない。また、相対取引であればインサイダー取引の規制を免れうるが、相対取引よりも市場取引のほうが税務上有利であって手取額が多くなるという理由から市場でクロス取引したものである。
2 本件犯行により被告人は、一部上場企業の会長という立場にありながら、合計で約一三二万株もの多くの株券をインサイダー取引として売却し、約四億五〇〇〇万円にのぼる損失を回避しており、株式市場の取引の公正に重大な不信を生じさせた。売却した株券の大部分が銀行との持ち合いとなっており、株価が下落したからといってすぐに損害が顕在化するわけではないが、持ち合いでなく一般に売却された株券も相当数存在する上、インサイダー取引の規制が、市場の公正に対する信頼を主な保護法益としていることからすると、有利な事情とはいえない。
3 P関連の特別損失の計上を遅らせたのは、鈴丹において一挙に多額の損失を計上することを避けたり、P支援の経営責任を明確化させないためなどにあり、遅らせることに被告人自身が関与した形跡もないが、本件の株券の売却も計上を遅らせる一つの理由となっていた。しかも、客観的にPの経営破綻が確実になっており、相当期間内に鈴丹の損失が解消される見込みが立たなかった以上、鈴丹としてはできるだけ早く特別損失として計上すべきであり、これを遅らせたのは当時の経営陣の責任逃れのための違法不当な会計処理と指摘されてもやむを得ない。そして、被告人は、結果的には、これに乗じて自己の利益のため本件犯行を行ったものであり、自己中心的との非難を免れない。
4 以上のとおり、被告人の犯行当時の地位、本件が被告人の負債の処理を目的にしたもので、負債の原因は被告人にあり、他の共犯者は被告人の負債の処理のために行動していたこと、被告人は共犯者に指示を与えうる立場にあったことのほか、本件犯行の規模、利益額、株式市場の信用に与えた影響、さらには、企業経営や証券取引の公正さに対する強い社会的要請なども考慮すると、他の共犯者に比べても、被告人の刑事責任は重い。そうすると、被告人に対しては罰金刑を選択すべきでなく、懲役刑が相当である。
5 他方、被告人は借金返済のためやむを得ず鈴丹株を売却したもので、被告人が本件の重要事実を知る前から鈴丹株の売却の話が進んでおり、本件犯行で売却した株券は、保有する鈴丹株の四割程度にとどまっている。したがって、本件はインサイダー情報を直接の契機として株券を積極的に売り抜け、利益を得ようとした行為ではない。本件による利益も借金返済に充てられて被告人のもとには残存していない。また、それ自体認識不足との非難を免れないとはいえ、被告人らは証券取引法の理解が不十分で、本件がインサイダー取引に当たるという認識を欠いていた。そのほか、被告人も犯行を反省しており、前科前歴はなく、高齢であること、鈴丹を個人商店から上場企業にまで成長させた努力や、社会的貢献などの酌むべき事情もある。
6 以上の事情のほか、これまでの同種事件の量刑例や共犯者の量刑等も考慮し、主文の懲役刑とし、刑の執行を猶予した。
(裁判長裁判官 安江勤 裁判官 山本哲一 裁判官 水野将徳)